その6 ノウシって?

友達の看護婦さんの病院で脳死下の臓器移植が行われたという話を聞いて


「うむー。意外と身近な話やな。
 おいらもそうなってしまったときには臓器提供してもいいな。
 死ぬのであれば有効利用してもらいたい」


と考えた。
嫁さんにその話をしたら
「いいんじゃない?」
という。


早速ネットでドナーカードがどこで手に入るのかしらべていると
脳死下の臓器移植についていろんな意見があることに気づく。

いろんな意見をみるにつけ、それらの根本的な判断材料となる


脳死ってなに?ていうか死ぬって何?


という問いに対しての知識不足と認識不足を感じて読み始めた本。


脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)

脳死・臓器移植の本当の話 (PHP新書)



ぐたぐた長く感想を書きそうなので最初に結論。



今の世の中、一般的に死ぬってことは心臓が止まることであるけど
いろいろな知識を身につけ、自分自身で「自分が死んだ」という状態を見極める。
脳死でもいいし、心臓死でもいいし、植物状態でもいいとぼくは思う。)


しかし最終的に「死んだ」という判断するのはもはや自分ではなく
(もうそのときには意思の表示ができない。)残された家族
つきつめればその家族の感情であり、
だからこそ、脳死下の臓器移植のドナーとなることを希望するなら
残されるであろう家族と共通の「死」の認識をもつことが大切。
そこに法律や常識は関係ない。最後は個人の道徳です。


だからこの手の本は嫁さんとか家族に読んでもらって初めて
自分自身がドナーとなれるのだと思う。



です。



この本の結論の賛否がどうであれ、この本の果たすチェック機能
(突っ走る医療従事者、立法機関に対して)というものがあることは
非常に大切だと思う。


だっていくら自分なりの死の基準を定めたって
脳死=一般的な死」と法的に認められれば、脳死になったら
はい治療終了、となるんだし。死人に医者は治療をしない。


死の選択を可能にする立法が必要。



以下はメモ程度。興味があれば。。






まず、この本は脳死は人の死ではないという前提にある。
しかし随分論理的に「脳死=人間の死」という意見に反対する割には
自身の「脳死≠人間の死」というものの説明は主観的であったりする。
たとえば楳図先生のマンガの情緒的な部分にその根拠を
おこうとしたりしている。


筆者の主張を成り立たせるためにレトリックを多用するのは
よくあるけど、これは露骨スギ。
本文で「矛盾しないことを弁明しようとするあまり、皮肉にも矛盾を
科学的に証明した」というようなくだりがででくるけど
それはこの本のことではないかと思ってしまう。
主張を正当化するあまり、信頼性がなくなってくる。
ホント腹立つほど。



・・・という感想を加味しても、この本には臓器移植、ひいては人の死というものを
考える上で必要かつ重要な材料がたくさん提示されている。




列挙すると




・日本でいう脳死とは「脳幹を含む全脳の機能の不可逆的な停止」だけど
 ホントに不可逆と言い切れるのか?14年「生きている」脳死患者がいるのだ。


・そしてその脳死状態でほんとに意識はないのか?
 植物状態のように意識はあってコミュニケーションがとれてないだけでないのか?


脳死と判断されて臓器を取り出す際に意識や感覚が残っている可能性がある
 (脳死者から摘出手術する際に麻酔をしなければ血圧の上昇があり、玉の汗をかき
 「死者」は動き出すこともある)


脳死者は動くことがある(ラザロ徴候)


脳死である妊婦は出産をすることが可能


脳死かどうか判定するには(「生きている」かもしれない人間に)虫ピンで顔を刺す、
 50ccの氷水を耳に注ぐ、人工呼吸器を止めるという行為を行う。


アメリカでの摘出例。喉に嘔吐物を詰まらせ窒息した若者から。
 心臓、肝臓、腎臓、すい臓、リンパ節、動脈の一部、眼球、腕、足、皮膚、骨
 関節、腹膜、アキレス腱が摘出。
 摘出後は崩れた姿形を修復するために合成樹脂のパイプが入れられる。
 後に何が残ろうか。


・5歳の女の子が心臓移植で助かった影には心臓を提供した子どもが確実に存在する。


・ある調査では心臓移植をしてもしなくても患者の生存率は同じ。
 果たして移植自体が必要なのか?


・三徴候死(心停止・呼吸停止・瞳孔散大・固定)が今の日本の死亡の基準。
 だがこの基準が闊歩しだしたのは20世紀後半のこと。
 (但し法律ではどこにも明示されていないらしい)


・移植を重要視するあまり、脳死待ちの状態をつくりだしていないか? 
 (脳死の判定も出ていないうちから救命、延命治療を行わない可能性がある。)


・思考の消失(=大脳死)が人間の死とするならなら、大脳が死んだら、
 まだ呼吸も体温調整もできる(小脳、脳幹は生きている)のに「死」とするのか? 


・現行の日本の法律では「脳死=人間一般の死」ではなく
 「脳死=臓器摘出のためならそれを死と認める」というもの。
 脳死=死という考え方は医学的には崩壊している。
 移植のための法律的な死でしかない。


・世界には脳死者本人の同意がなくとも家族の同意だけで臓器提供が行われる国もある。
(今話題の改正臓器移植法はこれを日本でも可能にする)


脳死者の「まだ生きている」遺体を実験や分泌物を製造する工場としてあつかう可能性がある


  • -


死の概念が精神の死つまり頭で考えられなくなった、感じることができなくなった
ということであるとする。


でも今の医学では「頭で考えられなくなった」という判断が決定的につけられない。
じゃあ何を持って死とするのか??
どうなんでしょうねえ?