その9 犠牲(サクリファイス)
脳死について。2冊目。
犠牲(サクリファイス)―わが息子・脳死の11日 (文春文庫)
- 作者: 柳田邦男
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1999/06/01
- メディア: 文庫
- 購入: 8人 クリック: 114回
- この商品を含むブログ (53件) を見る
柳田邦男氏の次男が25歳で自ら死の道を選び、脳死状態、そして
なくなるまでの11日間における医療行為、家族の心境、
そしてその間に柳田氏が辿りなおす、次男の自死を選ぶまでの
心の動きのをまとめたもの。
この本では実体験を通した家族の脳死というものに対しての考え方だけでなく
次男洋二郎氏がわずらっていた神経症と言う病の
むつかしさ、辛さというものも痛いくらい感じる。
気持ちの弱さと心の病というのは同一線上にあるとぼくは思っていた。
(心の病も鍛えれば治るのではないのか、と。)
でもこの本を読んでいると心の病は一般的に言う楽しいこと
(たとえば遊びや買い物など)すらも「頑張って」楽しもうとして結果楽しめない。
対して気持ちの弱さはいやなことに対しては「弱い」が
楽しいことに対しては結構積極的になれるんじゃないかという見方が
僕の中に出来上がった。
だから「心の病」に対して荒療治は効かないし、
「気持ちの弱さ」に理解を示しすぎるのもよくないのじゃないかな、と。
そして病の先には自死というものがあるのかな、と。
「心を病む者は、限りなく人恋しく、人の愛を求めている。
棘のない平凡で穏やかな会話を求めている。
しかし現実に人と接するとたとえ友達であっても
過度に気を使い、緊張し、気楽な会話が出来なくなる。
そして人付き合いの下手さを意識して、ますます苦しむことになる」
(本文より)
-
- -
(事故等による死は除いて)死とはだんだんに訪れてくるもので
徐々に残されるものが物語を作り、死を納得して受け入れるもの。
納得できる物語とは死の間際にいるものを知る、その家族の
人生歴の延長線上でしか作りえない(医者には作れない)。
そしてこういう見方に気づいたと言う。
一人称 自分はどのように死を望む
二人称 家族、恋人のように人生を分かち合った人の死に対しどう向き合うか
三人称 第三者(ニュースで見る知らない人など)の死。医者と患者はこの次元。
これまでの脳死論争は三人称で語られ、実際死の判断を
受け入れないといけない二人称の視点がなかった。
医療的にも法律的にも保険制度的にも遺族が余裕を持って死を受け入れられるように
そして、遺族自身が死を決定できるようになることが大事だと柳田氏はいう。
-
- -
この本も脳死となる家族を受け入れる遺族こそが
読む本だわな。