修学旅行


土日は中学の時の友達2人と京都見物。
土曜の夜に飲み屋に行って、その後東本願寺前にとった宿で3時くらいまでバカ話。
16,7年も前の話、結構みんな覚えてるもんだわ。
気分は中学生のまさに修学旅行な夜を3人で満喫。


翌日は二条城見物とこれまた修学旅行。
バスのって地下鉄のって歩き回って京都満喫の2日間でした。
住んでるところの近場で宿とはすごく贅沢な気持ちになった2日間。





その友達の一人が最近になって視覚に障害を持ち、
話をきいたり2日間いっしょに行動していて、はっとすることが多々あった。


目が見えていることで気にとめないこと、あたりまえのことが
見えていない状態ではすごく大切だったりするということを知った。


例えばバスの現在地。
静かなバスなら運転手さんやテープ音声で確認できるけど
多少がやがやしてたら聞き取れない。
見えていれば正面の料金表に出てくる文字や景色で判断することができるけど
見えなければ聞き取りにくいテープ音声しか頼るものがない。
(バスが前と後、どっちに進んでいるかもわかんないらしい)


ほかにも何気に歩道や駅構内にある床の点字ブロックの大切さ。
ほんとあれって重要なんだわ。
あれひとつで交通事故から免れたり、一人でバスから電車に乗り換えたりできる。
(これまた放置自転車でさえぎられたりしてるけど。公共広告機構のCMの意味初めて理解)


そのほかにも手すりや点字や音声案内盤等々。。



そんなこんなで感じたことは
「物事のルール化」の必要性。


中途失明者として勉強中の彼はバスに乗った時に
「押しボタンはどこ?」ときいてきた。
運転手さんに近いところに立つ以外は、ボタンでしか降車意思が表示できない
のでボタンの位置は一人でバスに乗る時にはもっとも重要なことだという。


ぼくはとりあえずの説明したけど、それが他のバスで同じとは限らない。
市バスで同じとしても、JRバスや京都バスで同じとも限らない。


こういうときにボタンの配置に「ルール」があれば彼は自信を持って
バスに乗れるんだろうなーと思う。
普段ボタンの位置なんて気にもともてなかったし。





建物を設計する者として感じることもたくさんあった。
建築物は用途や規模によって点字ブロックや音声案内板、点字表記等の義務化が
条例や法律で決まっている。


これまでぼくもこれら福祉条例の「申請を通すため」に最低限の対応をしてきた。


最低限の上、さらに見た目をスマートに見せるために
黄色い点字ブロックをわざと目立たないようねずみ色に変えようと
役所に折衝に行って断られてがっかりしたりもした。
(これ、病院や老人ケア施設の入っている建物で)


目的がバリアフリーにすることではなく、法律の文言を満たすことだったんだなと今にして思う。


ただここで誤解を恐れずにいうと
全ての建物に「福祉優先」の対応を強いるのは違うと思う。
この辺のさじ加減は非常に難しいけどなあ。
少なくとも公共的なものにはバンバン強いるべきだと思う。


そして大事なことはすくなくとも「目が見えているということ」に気がつかないうちは
上で書いたことのいみを本質的に理解できないということ。
(僕は彼に身をもって教えてもらった)
身をもって感じることで、物の感じ方や捉え方は、変わる。


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18歳以上で視覚障害者になった人は日本で18万人。
人口比で0.14%。
705人に1人だそうな。